空手が真似た柔道システムとは?

空手衣は柔道着をまねたもの。段位制度というシステムも柔道から取り入れました。沖縄から本土にやってきた空手は、本土の柔道や剣道をモデルにして、沖縄という地方武術から本土の日本武道を目指したのです。

 

 

琉球唐手を日本の空手に

沖縄県はもともと琉球王国という外国でした。言葉も琉球語と日本語は外国語同士、言葉は通じません。明治時代となり、日本に併合された琉球は沖縄となり、沖縄の人々に日本語教育が行われます。

 

沖縄の唐手が本土に来たとき問題となった言葉の問題

本土に最初に空手を伝えた船越儀珍は、士族の家系に生まれ、学校の教師をしていたエリートでしたから、日本語に堪能だったと考えられます。そんなところも、最初に本土にやってきた空手の先生となったのかもしれません。

 

沖縄から空手を教えるために本土に来た空手の達人たちは、言葉の問題で苦労したようです。中には通訳をつけて稽古をつけていた先生もいたようです。

 

さらに大正時代や昭和初期の時代、本土には沖縄を下に見る差別がありました。そのため、沖縄の人たちにとって、郷土の武道である空手を本土人に認めさせたかったに違いありません。

 

神棚、黙想、正座

沖縄の地方武術であった空手は、本土に入ってくると日本武道をモデルに稽古方法や風習を日本化させていきます。琉球語であった空手用語も日本語化していきます。

 

琉球王国時代の唐手は、師から弟子へと密かに伝えられ、稽古も秘密、その技は秘伝という、普通の人は習えないものでした。

 

明治になり、沖縄も日本化していきます。糸洲安恒(いとすあんこう)という名人が、中学校の生徒たちに危険な技を隠して「平安(ピンアン)」という型を作り、校庭で大勢の中学生に唐手を教えはじめます。

 

さらに本土に来てからは、練習も技もオープンとなり、道場には日本の神棚が祀られ、練習の最後に正座して黙想するのも、おそらく本土に入ってからのことと考えられます。

 

沖縄の唐手から日本の空手へ

柔道着をモデルにした空手衣や段位制度。稽古方法は日本の剣術や柔術を参考にして「約束組手」という練習法が作られていきました。柔道や剣道の乱取り稽古から「自由組手」も行われるようになりました。

 

こうして「沖縄武術の唐手」は、本土に来て柔道などの後を追いかけて「日本武道の空手」となっていったのです。